2015年05月30日

「誰か」はどこにもいないのです。

よくSNSとかで
「誰かおしゃべりできる人いませんか」とか
「誰か暇な人ー」という書き込みを見ることがあるが、
いつもこんな書き込みを見るたび、
これを書いた人は本気で「誰か」と出会いたいと思っているのだろうか。と思う。

書き込みを読む側からすれば、どこの世界に知らない人の「誰か」に自分がなりたいと
思う人がいるのだろう。と思うのだが。

しかも、「ヒマです」とか書いてあったら更にそれは自分の首を絞めていることに
気づかないのだから救いようがない。

よく考えてみてよ。

自ら「ヒマです」なんて言ってる人に会いたいと、話したいと思うか?って
ことですよ。

本気で「ヒマ」で、「誰か」と出会いたいと思うなら
自分ならこういうことが話せて、こういうことに興味があって、共通点がある人に
きちんとメッセージを投げかけた方がいいと思うんだけどなあ。

じゃなければ、「誰か」は「誰でもいい」ということで、その誰かになる人なんて
ほぼ皆無だろうということ。
そしてきっと、呼びかけている人もあわよくば「誰か」がこの書き込みを「見てくれて」
「メッセージくれないか」と思っているのだ。

そしてその期待感は崩れ落ち(想定内でもあるけど)ずっとこういう思いを抱えていくんだなあと
思ったりする。

私が、「誰か」なんてどこにもいないと気づいたのは、もうずいぶん前のことだ。

当時、私は某アーティストの公式支部ファンクラブ的なものをやってたことがあり、
彼らが売れない時はそれをバックアップして広報するとかそういう役目もあったのだが、
彼らがブレイクした後、その役目も不要となりこの会の存続が問題になったことがある。
私はもう、彼らが売れた時点で解散したいと思っていたのだが(←マイナー好き)
既にその頃で会員さんが150名ほどいたため、私の意志ではやめられない状態であった。

なので、会員さんに向けてアンケートを募ったのだが、その回答に唖然としたのだ。

「誰か代表でやってくれれば」
「誰かが代表になってもらって」

ほぼ大半の回答がこれだった。

思わず呟く。

誰かって誰よ。
どこにもいないよ。
てか、あなたたちが言っている誰かは自分自身も含まれるのに、
それはきっとこの人たちの中には含まれていないのだ。

ということに気づいた。

一気に脱力したので、結局解散となったのだが・・・。

それ以来、私は「誰か」と言う言葉には結構敏感だ。
「誰かいない?」

自分が発言することもある。

そして自己分析する。
「この誰かは誰でもいいけど実は誰でもいいわけではないなあ」とか
「この誰かはマジで誰でもいい」

と言う場合もあるけど、大体が前者。

きっと、
冒頭の「誰かいませんか?」と呼びかける人も
誰でもいいけど実は誰でもよくないはずだ。
誰でも、と言って間口を広げておいて、実はそこから選択したいのだ。

そうなんだよね?
誰でもよくなんかないんだよね?

そこをもっと自覚した方がいいと思うよ。
私はそんな悶々とした気持ちを抱えたまま生きていきたくはないからな。




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posted by うり at 10:42 | Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
”誰か”を求めているときは誰でもいい、最悪いなくてもいいんです。
その広報も”誰か”を求めている時点で、あってもいいし、無くてもいい。
受けるだけならいいけど、自分がやるのが面倒なんですよね。
沢山のコンテンツがあり選べる時代、発信側の気持ちがわかる人は少ないです。
でも発信側のボキャブラリーは人生を潤すので、大切ですよ^^
Posted by じゅんく at 2015年05月30日 20:47
じゅんくさん、ありがとうございます。
そうですね、私はちょっと四角四面に考える傾向にあるみたいです。

それと、発信側のボキャブラリーは人生を潤す・・・というのは具体的にどういう意味ですか?

すみません。
よかったらまた説明してやってください(;^ω^)
Posted by うり at 2015年06月03日 13:09
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